東京オリンピックと「コカ・コーラ」第2回 コカ・コーラシステム社員たちのオリンピック

「東京オリンピックと『コカ・コーラ』」連載。OB水野勝文さんの思い出を通じて、過去と未来をつなぐ物語を探求。

1964年の東京オリンピックに関わった方々への取材をもとに 当時の記憶をたどり、2020年大会へと繋がる“何か”を探していく連載「東京オリンピックと『コカ・コーラ』」。

第2回は、コカ・コーラシステム(*1)の社員たちの大会当時の思い出を振り返ります。

本記事では、日本コカ・コーラ株式会社OB水野勝文さんのエピソードを紹介します。

(連載第1回はこちら

文=野地秩嘉

写真=下屋敷和文

■国民一丸となって進めた一大事業

  前回の東京オリンピックが開かれた1964年は、どういう年だったのだろう。

 4月、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟し、先進国の仲間入りをした。同年の春から秋にかけてはインフラ整備が進む。首都高速が延伸し、東京モノレールができた。そして、10月1日には「夢の超特急」東海道新幹線が開業。東京オリンピックが開かれたのは、その10日後だった。振り返ってみると、国家的事業と行事が集約された年であり、今後、二度とこれだけの大躍進が起こることはないと思える。一部指導者層が成し遂げた業績ではなく、国民が一丸となって突き進んだから、できたことだった。

■国民一丸となって進めた一大事業

東海道新幹線「ひかり1号」は、日本人の”夢”を乗せて

東京ー大阪間を4時間で駆け抜けた(写真提供=読売新聞/アフロ)

  その頃の庶民の生活は、テレビアニメの「サザエさん」に表れている。人々は和室に暮らし、畳の上にぺたんと座ってご飯を食べた。座卓にある飲料はペットボトルではなく、急須に入ったお茶だ。波平とフネ夫妻は和服を着ているけれど、マスオさんとサザエさんは洋服である。日本人の生活が和風から洋風になっていく転換の時期であり、生活のなかには洋風の衣食が浸透し始めていた。

 1957年に発売された「コカ・コーラ」も、その一つだった。62年からテレビCMが放映されたこともあり、売り上げは急速に伸びていた。

 東京オリンピックの前年、63年に早稲田大学を卒業し、日本コカ・コーラに入社した水野勝文はこう振り返る。

 「とにかく忙しかった。そのうえ、オリンピック会場でも『コカ・コーラ』を売ることが決まったから、ますます忙しくなった。給料をもらっても、使う時間がなかったんだ」

■段ボールに手書きで「ナピトク Coca‑Cola」

  その頃、「コカ・コーラ」を販売していたのは酒販店、駄菓子屋、八百屋、ガソリンスタンド、米穀店などである。スーパー、コンビニがなかったのだから、商店街にある昔からの小売店に頼るしかなかった。そういった店はサイダー、ラムネ類を扱っていたので、同種の飲料だった「コカ・コーラ」もまた同じ売り場に並んだのである。

 「だが、売価が違った。サイダーは1本20~25円、ラムネやジュースは1本10円。対して『コカ・コーラ』は1本35円で、『ファンタ』は30円。国内の清涼飲料業界を保護するため、我々はこれ以下の価格で販売することが許されなかった。オリンピック前はそうした価格の高さもあり、売れてはいたけれど、まあまあの勢いだった。ところが、終わってからはまさに急上昇でした」

 急上昇には理由がある。酒販店など従来型の小売店の他に、チャンスの見込まれるあらゆる場所で販売したのである。夏の海水浴場、山のキャンプ場、野球場などのスポーツイベントはもちろんのこと、いろいろなお祭りやコンクール、運動会など……。なかでもオリンピックはひときわ大きなイベントだった。

 水野は思い出す。

 「会社から言われていたのは『人が集まる場所で売れ』。販売数量もさることながら、人目に付く宣伝効果が大きかった」

 ■段ボールに手書きで「ナピトク Coca-Cola」

当時のオリンピック応援ポスター。

亀倉雄策が手がけたエンブレムと「コカ・コーラ」の赤いディスクロゴが 美しい対になったデザイン

 水野が出かけていったオリンピック会場は、埼玉県戸田のボート競技場、自衛隊朝霞駐屯地内の射撃場だった。

「『コカ・コーラ』は1928年のアムステルダム大会からオリンピックをサポートしていました。選手村内では選手はフリードリンクでしたけれど、各競技場内の飲料は『コカ・コーラ』と『ファンタ』しかないのです。それで、私は当時、三国コカ・コーラボトリング(*2)が管轄していた戸田(埼玉県)のボート場に出張販売のアシスタントとして出かけていきました。『どぶ漬け』(水の中に砕いた氷を入れたもの)で冷やした瓶の『コカ・コーラ』を売っていたのですが、ボート競技って、それほど人気はないんですよ。だから、観客は多くはなかった。それでも、こっちは売らなきゃならない。ソ連の選手が大勢いたから、段ボールに手書きで『Напиток(ナピトク/飲料) Coca‑Cola!』と書き、買ってくれたら『Спасибо(スパシーバ/ありがとう)』と叫んでいました。そうしたら、ソ連の選手は結構買ってくれた。アメリカ人にはもちろん『Have a Coke!』だったね」

 水野はボート会場、射撃会場だけでは面白くなかったので、ある休日、東京コカ・コーラの代々木営業所に遊びに行った。選手村担当者に頼んで、代々木の選手村に出かけていったのである。

「選手村ではみんなが『コカ・コーラ』をがぶ飲みしてましたね。そりゃ、タダでしたから。アメリカ人はもちろん、日本人選手も飲んでいた。僕は本当はフランスの水泳選手、クリスティーヌ・キャロン(100メートル背泳)を見に行ったんだ。可愛くて当時、大人気。銀メダルを取ったし……。でも、一生懸命探したけれど、見つからなかった。男子選手ばかりが歩いていた。まあ、がっかりだったけれど、選手村に入ることができて、それはよかった。オリンピックが終わってからはさっきも言ったように忙しくなって……。特に、ボトラー社の所長やマネジャーの中には何ヵ月も休みを取っていないという人もいた」

日本で週休2日制が始まるのは東京オリンピックの翌年だ。水野たちが駆けずり回っていた頃は、忙しいこと、休まないことが社会の常識でもあった。彼らにとって忙しさはつらい思い出ではなく、明るい青春のひとコマだったのである。

取材を受ける水野勝文さん

取材を受ける水野勝文さん

*1 コカ・コーラシステム:原液の供給と、製品の企画開発・マーケティングを担う日本コカ・コーラと、製品の製造、販売などを担うボトラー社、および、関連会社で構成されるシステムのこと。

*2 三国コカ・コーラボトリング:埼玉県、群馬県、新潟県を販売地域としていたボトラー社。2015年に親会社のコカ・コーライーストジャパン(現:コカ・コーラボトラーズジャパン)に吸収合併された。

<著者プロフィール>

のじ・つねよし / 1957年東京生まれ。早稲田大学卒業。出版社勤務などを経てノンフィクション作家に。著書に『キャンティ物語』『食の達人達』『高倉健インタヴューズ』『プロフェッショナルサービスマン』などがある。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

連載・東京1964オリンピックと「コカ・コーラ」