東京オリンピックと「コカ・コーラ」第3回 選手たちの“食”を支えた学生アルバイト
1964年の東京オリンピックに関わった方々への取材をもとに 当時の記憶をたどり、東京 2020 オリンピックへと繋がる“何か”を探していく連載「東京オリンピックと『コカ・コーラ』」。
第3回は、現在は人形町の寿司店で店主を務める油井隆一さんが、選手村食堂でアルバイトをしていた頃のことを振り返ります。
学生に白羽の矢が立った理由
1964年の東京オリンピックで選手村の食事を担当したのは日本ホテル協会だった。なかでも大活躍したのが帝国ホテル新館料理長だった村上信夫である。NHKの「きょうの料理」に出演し、全国に名前を知られていたシェフだ。彼が担当した代々木選手村の富士食堂は約1万人の選手が利用する食堂だった。ただし、いずれもアスリートだから、食べる量が違う。1日に必要なカロリーは6,000キロカロリーで、成人男子の平均1,800から2,200キロカロリーの、ほぼ3倍。つまり、選手村にいる1万人に食事を作ることは、3万人の一般人に食事を用意することと同じだった。
その村上がいた選手村食堂でアルバイトをした男がいる。油井隆一。現在は人形町の寿司店「喜寿司」の主人である。
油井は1964年当時、立教大学経済学部の4年生で、ホテル研究会に所属していた。その年の秋のこと、所属していた立教大学ホテル研究会の先輩から「選手村食堂で働いてみないか」と声がかかったのである。
「僕だけでなく、ホテル研究会の仲間が40人くらい参加しました。選手村食堂はカフェテリア(*セルフサービス式の食堂)だったんです。いまでこそ、自分たちでプレートを持ち、並んで料理を取るスタイルは当たり前ですけれど、当時はそれも珍しかった。選手村にいた日本人選手が食堂に入ってきて、まごまごしていた様子を覚えています」
「喜寿司」店主の油井隆一さん
「料理を作るのは村上料理長を始め、ホテルや町場のコックさんたちでしたけれど、サービスの人間が足りなかったのです。何といっても、ホテル自体が稼働しているわけだから、多くの人数を割けない。そこで、私たちホテル研究会の学生に白羽の矢が立ったのでしょう。それに私たちもアルバイト目的というわけでもなかったんです。ホテル研究会にとってはサービスの実践の場でした。お金がもらえるというより、海外の人にサービスできるという喜びが大きかった」
ホテル協会が学生に依頼したのには理由がある。選手村食堂は前述のようにいずれもカフェテリアだ。フルサービスのレストランではないし、酒も出さない。ワインのソムリエなどは必要ない。
選手はそれぞれ好きなものを選んで席に座る。サービス係がやるのは食事が終わった選手の皿を下げたり、テーブルを拭いたり、食堂の掃除をすることだ。だから、本職のサービスマンを動員しなくても、学生アルバイトで充分にオペレーションできたのである。
油井たちが働いた富士食堂は24時間営業だった。学生たちも三交替のシフトを組み、食器を下げ、テーブルを拭き、周りを掃除したのである。
油井は「楽しかったですよ」と言う。
「選手村は代々木公園のまんなかにありました。食堂は仮設でしたけれど、総ガラス張りで高床式の建築でした。まわりは樹木と芝生です。陽の光が入って明るいし、風は通るし……。アメリカ映画に出てくる大学の構内みたいな感じでした。雰囲気のいい選手村だった。しかも、やってくる人はすべて外国人でしょう。詰襟の制服を着た学生が毎日、外国人に囲まれて仕事をするなんて、あの当時は夢のような話だったのです。『コカ・コーラ』も運びましたよ。僕は小学生の時から飲んでいる。ジョー・ディマジオが来日して神宮球場で試合をやった時にスタンドで飲んだことも覚えている。それに、僕は東京オリンピックの年に船でヨーロッパに行ったんです。ヨーロッパでは『コカ・コーラ』を飲んだ。あの頃、どこで飲んでも安心な飲料といえば『コカ・コーラ』だったから」
アベベの食後の楽しみは「コカ・コーラ」
さて、朝早く選手村に来た学生たちは制服に着替えて食堂に行き、朝食のサービスをする。シフトが終わった深夜勤務の学生とは朝食前に交替した。
朝の仕事が終わると、サンドウィッチの入ったランチボックスを用意し、それを選手に渡す。昼の弁当を持っていく選手の数は多い。間違ってはいけないから、実は食事サービスよりもランチボックスを用意する方がはるかに緊張したという。
夕方から夜にかけて競技を終えた選手たちが帰ってきて、夕食が始まる。終わる時間は競技によって異なる。サッカー、ホッケーのように競技時間が決まっている種目もあれば、走り高跳び、棒高跳びのように、誰かが勝つまで延々と続く競技もある。そのため深夜まで帰ってこない選手もいる。夕食は始まる時間は早く、終わる時間は遅かった。深夜の時間帯はさすがに食堂を利用する選手はいなかったが、早朝の4時を過ぎると、練習前に食べる選手や、また、代々木公園から離れた競技会場へ出発する選手がやってきた。世田谷の馬事公苑でやっていた馬術、八王子でやっていた自転車、戸田漕艇場で行っていたボートなどの選手は、それぞれ朝早く出発しなければならない。朝食を食べるのは明け方になってしまう。しかも、彼らは昼食用にサンドウィッチを持参する。料理人、学生ともども3交替でサービスしたのだった。
村上信夫は「メダルを取るようなスポーツマンは食べ過ぎはしなかった」と語った。なかでも村上が感心したのがアベベだった。
「マラソンで優勝したアベベにはローマオリンピックの時にサインをもらっていましたから、代々木の選手村でも話をしました。アベベは食事の仕方が上手でした。野菜、果物を多く摂るのです。満腹になるまで食べることもなかった。唯一の気晴らしが『コカ・コーラ』で、おいしそうにゆっくりと飲んでいました。優秀な選手は食べ方が上手で、みんなコントロールして食べていました」
村上は選手村でアベベが食事をしている姿を陰から見ていた。ゆっくり、しかも、コントロールしながら食べる様子に感心していたのである。
「マラソン中継は全部、見ていました。アベベ選手の2連覇がかかっていたのですから」
優勝した日、アベベはいつものように自転車に乗って選手村食堂にやってきた。その夜、村上は席まで行って、アベベに「おめでとうございます」とあいさつをした。アベベは「ありがとう」と言って、静かに頷いた。村上はアベベが「コカ・コーラ」好きなのを知っていた。アベベが、いつも1本だけおいしそうに飲んでいたのを見ていたのである。そして、優勝した日の夜、村上はアベベに「宿舎で飲んでください」と「コカ・コーラ」を6本渡した。アベベは微笑して、もう一度、「ありがとう」と言った。アベベは1本だけ飲みほして、あとは片手に提げて宿舎に戻っていった。
一流料理人・村上信夫の粋な計らい
2ヵ月の間、学生たちは村上の下で働いた。そして、学生たちが鮮明に覚えているのは村上のリーダーシップだ。
「村上シェフは立派でした。決して怒ったりせずに、料理人、学生アルバイトに指示を出して……。全部、自分でやってみせて、みんなをまとめていく。リーダーシップとはああいうものだと思いました。
そして、これは仲間の松田から聞いた話ですが、選手村が解散する時のことでした。村上シェフは全国から集まった300人のコックさんに、帝国ホテルのレシピをコピーして渡したんです。これは考えられないことです。帝国ホテルのレシピというのは門外不出のもの。仮に帝国ホテルに10年勤めてやめたとしても、レシピをもらえるなんてことはありえない時代でした。それなのに村上さんはコックさんたちに平等に配った。あのことによって日本におけるレストランの西洋料理の水準は上がったと思います。いま地方へ行くと、本格的なフランス料理を出すレストランが残っていることがある。そのなかには、『東京オリンピックの時に村上さんからレシピをもらった』という料理人がいるんじゃないでしょうか。村上シェフの大英断だと思います」
選手村食堂でアルバイトをしていた油井隆一たち立教大学の学生は、三交替で仕事をしていたからテレビで競技を観戦した記憶はない。むろん、国立競技場のチケットをもらったこともなかった。
「オリンピックが終わる時が僕らの仕事の終わりでもあるんです。選手村食堂は各国の選手たちに好評だったから、料理人もアルバイトの僕らも組織委員会から表彰されました。表彰状と記念品はいまも立教大学のなかの記念館に展示されているはずです。僕たちスタッフだけが集まった打ち上げパーティも覚えています。大きなケーキに『メキシコ1968』とクリームで文字が書いてありました」
それから半世紀が過ぎた。油井はいまも人形町の「喜寿司」のカウンターに背筋を伸ばして立っている。
「また東京オリンピックが始まるわけでしょう。2020年ですね。選手村食堂も必ずやるわけです。僕はそれまで元気で働くつもりです。そうして、皿洗いでも何でもいいから、もう一度、選手村食堂で働いてみたい。僕だけじゃなく、『やりたい』と言っている元気なやつが20人はいるよ。うん、もし、寿司を握ることができたら、それは最高だよ、きっと」
<著者プロフィール>
のじ・つねよし / 1957年東京生まれ。早稲田大学卒業。出版社勤務などを経てノンフィクション作家に。著書に『キャンティ物語』『食の達人達』『プロフェッショナルサービスマン』『高倉健ラストインタヴューズ』『トヨタ物語』などがある。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。