日本におけるコカ・コーラビジネスの歴史


日本における「コカ・コーラ」上陸から製造・販売に至るまでの歴史をご紹介します。

1914年(大正3年)
■高村光太郎詩集「道程」収録の「狂者の詩」゛コカコオラ″の名が登場
日本における「コカ・コーラ」販売の開始は、遡ること大正時代。1914年(大正3年)に発表された、高村光太郎の詩集『道程』に収録されている『狂者の詩』には、このような一遍があります。
コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH 銀座二丁目三丁目、それから尾張町 (中略) コカコオラもう一杯
銀座と「コカ・コーラ」という、当時のモダニズムを象徴している組み合わせが印象的です。

画像:高村光太郎の詩集「道程」

1919年(大正8年)
■明治屋のPR誌「嗜好」に「コカ・コーラ」の広告が掲載
食品の大手輸入商社・明治屋では、1919年(大正8年)に「コカ・コーラ」を発売。同社発行のPR誌『嗜好』に掲載された「コカ・コーラ」の広告は、『衛生的にも嗜好的にも最も進歩せる世界的清涼飲料水』というヘッドコピーが飾られていました。
そしてこのコピーのあとには、さらに「コカ・コーラ」の特色が綴られています。

明治屋が今夏季の販賣品として誇りを以て顧客各位に御紹介申上ぐるのは實に此のコカコラタンサンであります、本品は今や全米國に於て諸種の卓上用飲料として至る處に非常の大流行をなしつつある沸騰清涼飲料水であります。
(中略)
本品の風味はコーヒーの如き香ばしい香りを有し、其上微に生姜の如き香りと辛味とを含み尚少しく甘味を有し色合もコーヒーの如き色を呈して快く沸騰します。酒宴の後叉は晩酌に微醺を帯びたる時、叉は極暑に心身の倦んだ時氷に冷したる此のコカコラを用ゐれば心胸忽ち濯うが如く清爽の快謂うべからざるものがあります。而も老幼方やご婦人のお口にも好まれ御酒を召上らぬ下戸方の飲料としては至って賞美すべき價値があります。誠に珍しい一般的飲料であります。

この文面からは、「コカ・コーラ」が輸入販売され始めた当時の世相までもうかがい知ることができます。

画像:大正8年の明治屋PR誌広告

1925年(大正14年)
■芥川龍之介が佐佐木茂索にあてた書簡の中に゛コカコラ″の名が登場
1925年(大正14年)に作家・芥川龍之介が修善寺にて、小説家・佐佐木茂索宛にしたためた手紙の一部にも、「コカ・コーラ」について触れた文面があります。

酒飲まぬ身のウウロン茶、カフェ、コカコラ、チョコレート……。

これらの作品を通して、「コカ・コーラ」は大正から昭和初期にかけて、都会人を中心に飲まれていたことが推測できます。

画像:佐佐木茂索宛書簡 大正14年5月1日 修善寺から

1949年(昭和24年)
■日本で「コカ・コーラ」ボトルの製造開始
それまで輸入品であった「コカ・コーラ」ですが、終戦後まもなく、世界各地で「コカ・コーラ」ビジネスを展開していた、ザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーションの代表者が来日。早々に日本支社が立ち上がり、1946年(昭和21年)以降、日本国内の6箇所にボトリング工場を設置。次いで炭酸ガス工場なども操業し、1949年(昭和24年)には国内での製造が本格的にスタートしました。

画像:木箱で出荷される「コカ・コーラ」

1952年(昭和27年)
■髙梨仁三郎氏が渡米しザ コカ・コーラ エクスポートコーポレーションと交渉の結果、東京での販売権を獲得
日本の「コカ・コーラ」発展の道を拓いたのは、のちに『日本の「コカ・コーラ」の父』と呼ばれる髙梨仁三郎氏。戦後まもない1947年にはその将来性にいちはやく着目し、事業展開を目指そうとしたものの、原液の輸入規制や外貨の使用認可といった難関が立ちはだかり、すぐにはかないませんでした。しかし髙梨氏は1952年(昭和27年)に渡米。ザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーションとの交渉の末、販売権を獲得したのです。

画像:髙梨仁三郎氏(昭和20年代半ば)

1956年(昭和31年)
■東京飲料株式会社⦅のちの東京コカ・コーラボトリング(株)⦆が創立し、日本で第1号のボトラー社が誕生
1956年(昭和31年)、原液の輸入が解禁されたことをきっかけに、東京飲料を設立。日本第一号のボトラーとして契約を締結しました。その後、1963年(昭和38年)までに全国16のボトラー社が次々と誕生することに。髙梨氏が「コカ・コーラ」事業に着目してから実に10年近い歳月が流れていましたが、ここでようやく日本における「コカ・コーラ」ビジネスの始動となりました。

画像:東京コカ・コーラ(当時東京飲料)の営業所(昭和36年頃)

■販売箇所の制限や販売方法、価格について
政府が東京飲料に許可した民間用「コカ・コーラ」の販売箇所は、外国人客の多い全国ホテル56箇所、ゴルフ場20箇所、ボウリング場1箇所、外国人クラブ8箇所、外国人学校11箇所の合計96カ所に限定されていました。当時はわずか3台のルートカーしかなく、1日に20〜30ケースを販売するのがやっとという規模でした。

画像:限定されていた販売個所

1957年(昭和32年)
■「コカ・コーラ」のレギュラーサイズ(190ml)の製造・販売を開始
1957年(昭和32年)上半期に東京飲料が割り当てられたのは、外貨2万ドル相当の「コカ・コーラ」原液。当時は輸入したこの原液で、民間市場での「コカ・コーラ」の発売を目指し、レギュラーサイズ(190ml)の製造を開始しました。

■5月8日(コカ・コーラの誕生日)に、日本における民間施設への販売第1号となる社団法人 東京アメリカンクラブに20ケースが東京飲料(株)より納品された。
1957年(昭和32年)5月8日、カスタマー第1号である社団法人 東京アメリカンクラブに「コカ・コーラ」20ケースを納品。日本での「コカ・コーラ」事業にとっても記念すべき「『コカ・コーラ』の誕生日」となりました。さらに同年9月にはファミリーサイズ(26オンス)のびん詰設備を設置。軍民のマーケットでの販売に活用されました。

■東京飲料の設立に呼応し、原液供給元として日本飲料工業株式会社⦅のちの日本コカ・コーラ株式会社(株)⦆が創設
1957年(昭和32年)6月25日、日本飲料工業株式会社が設立。ウィリアム・H・ロバーツが社長に着任し、社員10名でのスタートとなりました。ザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーション全額出資により日本法人として誕生したこの会社が、現 日本コカ・コーラ(株)の母体となっています。

画像:日本飲料工業(株)の社屋建設工事

1958年(昭和33年)
■日本飲料工業株式会社の社名を「日本コカ・コーラ株式会社」に変更。社屋を横浜から東京都大田区雪ヶ谷に移転
日本飲料工業は1958年(昭和33年)3月15日、「日本コカ・コーラ株式会社」に改称。同年5月1日には本社を横浜から東京都大田区雪ヶ谷に移転しました。新資本金は3,800万円、従業員数は13名に増え、新たなステップを踏み出します。

画像:当時の東京・雪ヶ谷本社

■雪ヶ谷に原液工場が竣工
日本各地に設立されたボトラーの社数と販売予測量を鑑みると、必要に見合うだけの原液輸入が難しいことが予測されました。その理由は、日本政府からその輸入に必要な外貨が割り当ててもらえない可能性があるから。この外貨問題を解決するためにも、国内における原液の生産が求められ、東京都大田区雪ヶ谷に原液工場を設置する運びとなりました。(現在、原液工場は滋賀県に所在)

画像:建設中の雪ヶ谷本社

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